平将門の怨念は1000年以上!奇怪な現象の理由とは

平将門の首塚はご存じでしょうか?

将門の首塚は大手町のビル街の間にあり、行ったことがある人ならなんとなく異様な雰囲気を感じたのではないでしょうか?戦国時代に生きた人なので、戦が当たり前の時代であり戦で亡くなる武将というのは沢山いたわけです。その中でも将門の怨霊は最強と言われています。

 

平将門の怨念とはどのようなものなのか?

 

かつての大蔵省が関東大震災で全焼。新庁舎を建てる前に、仮庁舎を将門の首塚を取り壊し建てた。

 

その後役人の中から病気や怪我をする人が続出、これが将門塚を取り壊してその上に庁舎を建てた祟りだという噂が広まった。それもなぜか足の怪我に集中していた。

将門を足下にした祟りだと一気に噂が広まります。

 

わずか2年の間に現役大蔵大臣である早速整爾を筆頭に現職課長や建設に携わった関係者14名ものが不審死。

 

大蔵省職員の動揺を抑えるために南無阿弥陀仏鎮魂碑を首塚の前に建設された。

 

昭和15年6月に落雷で大蔵省の主要建物が全焼しました。


戦後、焼け野原だった首塚周辺をマッカーサー率いる米軍(GHQ)が巨大駐車場を作ろうとするが、建設中にブルドーザー運転手が横転して亡くなる事故が発生した。

 

数々の怨霊伝説のある平将門の首塚ですが、それ以降の伝説はないようですが、「触らぬ神に祟りなし」ということで首塚を潰そうという動きがないからかも知れません。

 

現在も大手町に首塚はありますが、周辺はビルで囲われておりビルのテナントでは首塚に背を向けないようなデスクの配置にしているようです。

 

めちゃくちゃ気を使っていますよね、将門首塚に失礼があってはならないと・・というよりも数多くの伝説を持つ将門の怨霊を恐れてそのようにしているということだと思います。実際に生きていたのは1000年以上前の平安時代ですからね。

怨霊の根深さ、執念がどれほどのものだったのか・・・

 

怨霊の都市伝説だけが独り歩きしている感がありますので、平将門の生い立ちや

どのような人物だったのか、どんな亡くなり方をしたのか、そのあたりを掘り下げていけば恐ろしい怨霊の理由が少しは分かるかもしれませんね。

 

平将門とはどのような人物だったのか?

 

当時の朝廷に反乱を起こして自らが親皇として名乗ったのが平将門だった。

 

平将門はどのようにして亡くなったのか?

 

承平天慶(しょうへいてんぎょう)の乱によって討伐されるのですが

 

ーーーここから順に平将門の生涯を見ていきましょうーーー

 

叔父たちから目の敵にされ親戚間の小競り合いが絶えなかった

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将門が生きていたのは平安時代の中期平安京を作った桓武天皇の5世の孫という由緒ある血筋。将門の祖父である平高望はその血筋を持っても天皇になることは難しいと考え、京を離れ関東を拠点に移しました。

高望は関東の有力者の娘を息子たちの嫁に迎えることで勢力を拡大していった。息子たちにそれぞれ領地を残します。

その1人である将門の父良将は早々に亡くなってしまい残された領地を巡って叔父の平国香、国香に娘を嫁がせた源護と争うことになります。

 

将門は国香と源護を返り討ち、国香以外の叔父たちも源護の娘を嫁に貰っていたため、将門は叔父たちから狙われる立場になってしまいました。

ここから親戚間の小競り合いに発展していきます。

 

朝廷を敵に回した将門、対抗するために関東を制圧する

将門は戦に強く知力に優れていたため親戚間の小競り合いにおいて常に有利にことを運んでいました。

しかし、国の最高権力である朝廷に「お尋ね者」にされ将門に助けを求めてくる人物がいた。藤原玄明である、玄明は常陸を任された受領である。

藤原維幾に反発して税金を払わなかった為に朝廷から追われる身となった。

 

将門は玄明の罪を朝廷に報告した維幾と因縁があり、玄明を受け入れた。

 

維幾は将門が親戚間で小競り合いしたときに叔父たちに加担したことがあったからです。

さらに、国に帰りたいという玄明の願いをかなえるべく維幾を攻撃することになりました。

 

結果、将門は維幾に勝利し、朝廷から預けられた受領の証である印鑑を奪ってしまうという暴挙に出ます。

 

そのことで朝廷を敵に回してしまった将門は国から狙われる身となった。

それに対抗するためには大きな勢力が必要になります

そこから関東一円の受領を追い出して制圧、さらに勢力を手に入れ

 

天皇の対となる新皇を名乗る

 

自らの身を守る為の行動とはいえ徴兵や徴税に苦しむ民衆からは英雄的存在だったと言えます。

しかし、新皇としての日々はたったの2ヶ月で幕を下ろすことになります。

将門の討伐に本格的に乗り出した朝廷は有力な武士を関東へ次々に送り込みます。

 

その中のから名乗りをあげたのは藤原秀郷で奥州藤原氏の祖先にあたる人物です。

 

秀郷は将門のいとこであり、親戚間の小競り合いにも度々関わっていた平貞盛と手を組み将門を奇襲攻撃。隙を突かれた将門は窮地に陥り、自らが戦場に繰り出した際に流れ矢を頭に受けてしまい生涯を閉じました。

 

当時の朝廷に歯向かった罪の重さは相当なものだったと言われています。

将門の怨霊の都市伝説はここから始まります

本来首塚は首を供養するためのものであったが、将門の首塚はその怨霊を封印する意味合いが強かった。1000年以上経った今でも都市伝説として根付いており、現在に至っても怨霊が消えないと言われています。将門の怨霊は壮絶な亡くなり方が深く関わっているというのがその理由というわけですね。